【サウナ】昭和の詩人が見た、銭湯のある景色

目次

銭湯のある風景「スコッチと銭湯」

銭湯の煙突
昭和時代に多くみられた銭湯煙突

昭和の詩人が見た、銭湯のある景色

とある本に、昭和50年代の銭湯についてのこんな記述がありました。

そして眼下に、荒川と江戸川にはさまれた葛飾の、起伏のまったくない平野部があらわれ、その平面には二階だての小さな民家と町工場とが肩をよせあうようにして、ぎっしりと立ち並び、高いものと云ったら、消防署の火の見やぐら、それと町工場と銭湯の煙突ぐらいなもので、おまけに××湯と書いている銭湯の煙突の数が、じつにまた多いのである。

田村隆一「スコッチと銭湯」

この文章が書かれていたのは、昭和の詩人、田村隆一の「スコッチと銭湯」です。著者の田村隆一さんはどうやら相当の酒豪のようで、本の中には、銭湯で汗を流し当時の文化人と酒を酌み交わす様子が描かれていました。詩人らしく、いかにも風流人といった感じです。

さて、冒頭の引用は、北千住から電車に乗って荒川を越え、東京のイーストサイドに向かう時の風景を記したもの。

著者が、映画「男はつらいよ」の17作目を見に行った後に江戸川が見たくなり、柴又へ行く——というくだりです。映画「男はつらいよ 夕焼け小焼け」(寅さんシリーズ17作目)の公開年である、1976年の出来事だと思われます。

東京の東側は、今でも下町として親しまれています。これだけ都市化した現在で、電車の窓から町工場や銭湯の煙突が見えるとは考えにくいですが、期待する気持ちも捨てきれません。

昭和の大詩人が見た景色がどのように変わっているのか、45年以上経った東京下町銭湯の今を見てみましょう。

銭湯の今 昭和と令和を見比べる

銭湯の煙突と、町工場の煙突

JR常磐線で北千住を過ぎ、荒川を渡ると、柴又のある葛飾区に入ります。

マンションがぽつりぽつりと建ってはいますが、都心に比べると高い建物はほとんどなく、一軒家がひしめき合っています。ところが、詩人・田村隆一が見た町工場や銭湯の煙突は見当たりません。

亀有のホワイト餃子
唯一目立っていたのは「ホワイト餃子」の看板

本が書かれた1970年代当時の東京イーストサイドが実際にどのような様子だったのか、区の史料や当時の都市計画をあたると、煙突があるような工場はだいぶ無くなってきていたようです。

かつて、この地域で有名だった煙突のある工場といえば、北千住にあった火力発電所。通称「お化け煙突」でした。

ある人は煙突の数を4本だと言い、また別の角度から見た人は「いや、煙突の数は3本だ」と言う。位置によって煙突の本数が違って見えるために「お化け煙突」という愛称がついたそうです。

からくりはとても単純で、4本の煙突が菱形に並んでいたため。角度によって煙突同士が重なりあい、本数が減ったように見えたのです。

荒川の風景
かつて「お化け煙突」が見えた荒川土手

当時の写真には、荒川の堤防からお化け煙突をながめる子どもたちが写っていて、地元の象徴だったことが伺えます。

ところが、火力発電所は、詩人・田村隆一がこの地を訪れる10年以上前に取り壊されています。そのほかにも、ガス製造や、毛織物といった煙突のある工場が立ち並んでいましたが、いずれも1960年代には操業停止や建て替えなどで煙突は無くなっています。

1960年代には、四日市ぜんそくなどの公害問題から、公害対策の法律が整備されています。「スコッチと銭湯」に書かれているような町工場の煙突は、少なくなってきていた時期のようです。

銭湯と「灰色」の都市

工場の衰退とは反対に、銭湯の煙突は、当時まだ多く残っていました。1970年代の東京23区の銭湯の数は、およそ2,000件。令和になると銭湯は約400件まで減少していますから、本が書かれた当時の東京では銭湯がまだまだ身近な存在だったことが分かります。

××湯と書いている銭湯の煙突の数が、じつにまた多いのである。

田村隆一「スコッチと銭湯」

この記述は誇張でもなんでもなく、実際に銭湯の煙突が地域の象徴として立っていたのでしょう。また、「スコッチと銭湯」の中にはこんな一節もあります。

東京が高度経済成長的「都市」になるにつれて、その都心部から銭湯は姿を消して行った。銭湯の消滅は、肉声を超えた情報によって操作される非人称的「灰色」の都市の出現である。

田村隆一「スコッチと銭湯」

田村隆一は、本の中で「東京のイーストサイドでは、銭湯がまだコミュニティーの中心になっている」とうれしそうに語っています。現在でも、東京の中心地にいくほど銭湯は少なく、郊外に向かうほど銭湯が残っています。

23区の銭湯マップ
赤色は、現在25件以上の銭湯が残っている区

実際に、荒川と江戸川にはさまれた葛飾の周辺をぶらぶら歩いていると、煙突のある銭湯に2件出くわしました。「犬も歩けば棒に当たる」よろしく、「ひがし東京を歩けば銭湯煙突に当たる」です。

なんとなしに歩いていて銭湯にばったり出くわすこと自体、東京の中心地では珍しいことです。それどころか、そもそも煙突のある銭湯も珍しくなってきました。

煙突から排煙が必要な薪燃料を使うことは少なくなり、ほとんどの銭湯では石油やガスを使用しています。薪焚きの銭湯に出会ったらラッキー以外の何ものでもありません。薪で沸かしたお湯は芯からあたたまり湯冷めしにくいと言われています。もし見つけたら迷わず入浴しましょう。

銭湯の煙突
街ブラで見つけた銭湯煙突

銭湯コミュニティに必要なもの

銭湯の効能

今も銭湯が多く残っている葛飾区でも、廃業する銭湯は確実に増えています。東京都全域でここ5年間に廃業した銭湯の数はおよそ100件。コロナや燃料高の影響で今後さらに廃業してしまうことが予想されます。

田村隆一の「スコッチと銭湯」では、江戸川を見たあとに柴又駅ちかくの帝釈湯という銭湯に入ったと書かれていますが、帝釈湯もとっくに廃業していました。

柴又駅
「帝釈湯」のあった柴又駅

著書「スコッチと銭湯」の中では、風呂上がりに、「男はつらいよ」の山田洋次監督と会って一杯やるのですが、田村氏は風呂あがりでごきげん。一方の山田洋次監督は小さくなって萎縮しているような様子で、ふたりの対比がおもしろく描かれています。銭湯に入れば、それだけで気分がよくなる。そんな風呂屋の効能がよく表れている場面です。

コミュニティに必要なもの

銭湯の消滅は、肉声を超えた情報によって操作される非人称的「灰色」の都市の出現である。

田村隆一「スコッチと銭湯」

「肉声」、つまり人の息づかいが感じられなくなったことを、詩人・田村隆一は嘆いています。

今週、肉声の交流があったかちょっと思い出してみましょう。家族、友人、職場といった限定的なコミュニティ以外に、生の声でのやり取りが一切なかった、という人がほとんどではないでしょうか。

そもそも、見知らぬ他人と会話をするなんて、よっぽど社交的な人にしかできないことです。

ところが銭湯ではふしぎと、居合わせた人同士の会話が発生することがあります。

スコッチと銭湯」に書かれた東京イーストサイドの銭湯風景を取材しに行ったついでに、地元の銭湯におじゃましたところ、常連さんにサウナのお作法を教えていただいたり、帰り際に「もう帰るの? またね」と笑顔で声をかけてもらったりしました。銭湯ではこういった自然な会話がよく起こります。

銭湯と常連客
地元客によって「銭湯コミュニティ」が保たれている

このゆるやかな交流が、詩人・田村隆一の言う「肉声のコミュニティ」の魅力でしょう。

銭湯と似たような都市型のスパでは、肉声の交流は起こりません。たとえ美しくデザインされたコミュニティスペースがあったとしても、それはグループで訪れた人のための閉じたコミュニティスペースであるように思います。

おそらく、コミュニティとは、歴史と常連が必要なのです。コミュニティとは共同社会のこと。銭湯を中心にして結合している集団が、銭湯コミュニティを築いているのです。結びつきの弱い、流動的な都市型施設でコミュニティが生まれにくいのは当然のこと。

一朝一夕でできあがるものではないからこそ、貴重なコミュニティである銭湯をこれ以上失ってはいけないと思うのです。

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この記事を書いた人

サウナ短歌の第一人者。サウナスパ・プロフェッショナル。公衆浴場コラムニスト。お問い合わせはインスタ・TwitterのDM、またはHPの問い合わせフォームからお願いします。

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